メンヘラ兼オタクの備忘録

ツイ廃メンヘラ女の備忘録。制作したレシピや趣味の事も書きます。

無題

最近、酒よりODの方が楽しいと学びました。レスタミンODが前より効かなくなってるのに腹は壊れるのでレスタミンをODした時は毎回フラ付きながら1時間に2回くらいトイレに行ってます(バカだね)。

さて、自殺未遂だと保険とかが適用されないと聞いたことがありますが実際どうなんでしょうね、鬱やら躁鬱やらの診断が元々あれば大丈夫なんでしょうか?精神病だって病気なんだから適用してくれたら良いのに!と思っちゃいますがキリが無いし判断が難しいから無理なんでしょうね。やらかして保険適用されずにすごい金出すくらいなら、ぶっちゃけタブレットかPC欲しいんですよね。入院してた頃が懐かし〜〜です。お家貧乏だし他にも色々あって多分症状もそこまで重くないとかで入院以前の問題ですが(とはいえ日常的なストレスは増えるばかりである)

 

それから、最近新しく始めたカウンセリングの先生が、いつもゆっくり鼻から息をして呼吸整えて自分を見つめて〜今日の調子はどう?体や心はどんな気分?心は何色かな〜なんてよく分からない質問をしてくる。知りもしないカウンセリングの先生に体調言えたら苦労してないし、自分の精神面がどうかなんて分かったら困ってないし。というか心の色ってなんだ、と苦笑いしたくなりつつすべて分からないと答えるところから始まるのが正直嫌なのでなんだかめんどくさい。基本、科学的に証明されてないようなことは信じないつまらないほどの現実主義なので、心に色なんてものは無いと思ってるし息を整えたからなんだという話だ。第一私は意味がよく分からない深呼吸や準備運動の類が大っ嫌いだ、せめてやらせるなら何か理論的な理由を説明しろと常に思っている、それを踏まえて納得したら真面目にしてもいい。でも多分、私はこんな簡単な自己主張すら声が詰まって出来ないので、諦めだ。

何がストレスか、という漠然とした質問に答えるのは私にとって非常に簡単だ。何かしらの形でストレスになったことをそのまま実況すれば良いし、その場で体感している時は分からなくても、ストレスを感じた自分がどういう事をするかを理解し、その前に何があったかを考えればアレがストレスだったんだろうなぁ、と分析することが出来る。なので、接客が辛いとか家の事が辛いとかそういう事は延々と話せる。でも、そこを踏まえてどうしたいのか、何に改善を求めるのかと聞かれるとどうだろう、私は一転して何も言えなくなってしまう。それらは今までの挫折に次ぐ挫折、理不尽に次ぐ理不尽を踏まえて無意識に「この方法は無理だ」「あの方法無理がある」「この手段は前に敗れた」などと無意識に決めつけて悲観しすぎている事とか、自己嫌悪をこじらせて「こんな理由で迷惑をかけていいわけがない」「自分にそんな価値はない」「自分のためにそこまでするのは面倒」などと私を苦しめてる家族や他人すら自分より優先順位が高い事などに起因すると思っている。なんか付き合いの古い担当医の先生もそんなことを言っていた気がする。なのでその先生も言った通り私は、大切な友人達や相互さんになら相談された事に対し真面目にそして理性的に調べ、考え、自分としては一番良い、相手の希望に添えると思える意見を提案できるだろう。ただそれは相手を思っているからで、自分のことはそんなに大切じゃないからどうでもいいし逃げるのもめんどくさいし、このまま死んだ方がいいとすら思えてくる。

これに気付いた時、もう一つあることに気付いた。なんかこれDVとか虐待とかネグレクトとかしてくる相手に依存しちゃうみたいなアレと似てないか?と。私自身にはそういう体験がない、そう思っているのでその前提でこの先を読んで欲しい。家族には一応、小さい頃なんかはよく可愛がってもらった恩がある。今も、一応優しいところでは優しいし、距離の近い家族でなければいい人だと心底思う。だから、大っ嫌いな自分何かのために迷惑を掛けて、傷付けたくないのだ。他に逃げ場がないからこそ、ほんの少しでも、半分だけでもいい部分がある事でそこに依存して、縋り付いてしまう。飴と鞭とはよく言ったものだと思う。

 

話を戻そう。これらは理解した所で、そう簡単にどうにかなる訳では無い。ただ理解した事でそこに漠然と、自分は恐らくこういう人間であるという認識と、そこからまたあぁやっぱり私は酷い人間だ。死んだ方がいいのにその方が楽なのに、役にも立たないのに自堕落に惨めにみっともなく生きている、という意識が残る。

例えば、私がうんと自己中心的で、例えば自分の思い通りにする為なら一切手段を選ばず周りの迷惑なんか全然考えない、それに対し罪悪感すらないような人間ならとっくにこの世にいないだろうと思う。理性的で、客観視が得意で、自己肯定感が無いので他者ばかり優先するし、解決という方向に関してはとても自分の意思が薄い。そうすると、それ故に生きているという結論が出る。これは別にそうである人を批判する訳では無い。むしろ「自分は辛い」「自分は苦しい」「楽になりたい」と主張出来るのはすごい事だと思う。簡単じゃないか、と思うかもしれないがすごく難しいのだ。出来なくなるんだ。だからどうか、まだ言えるなら口を噤まないで欲しい。

そんで結局自分がこの先どうしたいか、また今をどう変えたいのか、どう言ったことから優先的に改善したいのかなどという事は他人から案を貰うことは出来ても結局自分で決めて、動くしか無い。誰も私なんか助けてくれないので、失った意志を取り戻して見つめ直すところからという訳である。なんて無茶な。それが簡単に出来たら行き詰まって死ぬ人今より少ないと思う。でもやるしかない。己の意思、という曖昧な概念を確かに認識出来るのは私だけで、他人がそれを読み取るなんて超技術、現代…少なくとも私の知る範囲にはに無いからだ。

自己肯定感を高める?自分の意思を考えて見つめ直す?何が一番嫌か決めないとだって???いや、分からん。なんつー無理難題。こんな調子で諦め始めるとなんにも分からなくなるので、大切な友人や相互さんには諦めてしまう前に当人が望む形で、幸せになって欲しい。

 

どうだろう?そろそろ、何が言いたいんだコイツ。グダグダつまらない身の上話と心理描写と痛々しい解釈なんか垂れ流しやがって、なんて思っているんじゃないだろうか。

よく考えてみてほしい。これはつまり、回復過程で自分を優先出来るようになるとそれはそれでまた苦しむ事を示唆しているのだ。私が死にたいくらい辛いのに、現状の脱出すら怖く億劫であるという理由が見えて来やしないだろうか。ろくに治りもしない癖に、回復しても辛い思いをするなんて酷い話だけれど、理解が無いというのがもっと酷い。話が逸れるので発達障害に関しては棚に上げさせてもらうが、私のこの躁鬱というのはまるでジェットコースターである。(この躁鬱ジェットコースターに生殺与奪の権を握られている)

酷すぎる時と酷い時の合間に一瞬、異様に元気で元気過ぎるくらいの時期が来る。だから、一時的な不調だと思われるし、鬱じゃないんでしょ?みたいになるし、一瞬の躁状態のせいで治った、回復するなんて勘違いをされる。その上、体が丈夫なので割と肉体はぴんぴんしている。精神病患者がみんな揃って内蔵ぶっ壊して搬送されると思うなよ、バカめ。と言った具合で理解が無い。その上当事者は、鬱の時は何も出来ないことに罪悪感を覚えその他諸々ひたすら精神的に落ち込み病み続け、躁状態の時はと言うと次襲い来る鬱に脅え病んでいる。そこに追い打ちをかける周囲の理解のなさという隙を生じぬ二段構え、ってワケだ。でも当事者とかそこに近しいとか、そちらに関して専門的な勉強をしていて知識があるとかじゃないと理解は難しいと思う。

(だからって否定する必要ないと思うけど………)

こんな所まで読んでくれる人なんているのか分からないが、居たなら感謝を述べたく思う。ありがとう

何か少しでも、参考になったなら嬉しい。こんなものが参考になるとは、思えないけれど。

 

 

ま、そんなこんなでグダグダ生きてるよ〜という報告です。文字にすると整理しやすいのと、覚え書き代わりに。